貧乏な男が、金持ち生活をした末路(8)

男は遠い国で、会社から丑三つ時に帰宅したあと、体力精神力のを使い果たし、シャワーを浴びることさえめんどくさくなり、すえた臭いを気にすることもなく入眠するようになっていた。

ドライバーもメイドもいて、通勤は後部座席にすわっているだけ、部屋も風呂もトイレも掃除洗濯しなくてよい、食事はすべて外注、そのような境遇にもかかわらず、である。

人間として文化的な生活をするのに必要な手間を、ほとんど自力でしなくなるのは、その分余った手間を仕事に振り向けている証拠だ。

こういうふうに男は考えていたが、実はこれは全くの虚妄であって、日本で暮らしていた時も大して変わっていない。余った手間を、結局シャワーに使わなかった、というだけの話である。

ここまでは典型的な独身男性の一類型にすぎないが、男には唯一、異国で1320万円をしていて、口座には使う暇もあてもない現金が積みあがっていた。

カネを使うアテがない、というのは物欲がないからではなく、怠惰な男の計画性や企画力の欠如であって、要するにバカだからだ。カネ使う暇がない、というのは予定を立てていないから行動できない、ということに加えて、遠い国では土曜日も勤務日であるというのは無視できない。1320万円生活は身分不相応の僥倖であることは疑いないが、この土曜日勤務というのは、宝石にこびりついたクソの部分である。

状況がゆるせば、土曜日はT.G.I.Saturday.である。土曜日は本国の会社が休日だから電話がかかってくることも少ない。ここ遠い国のおっさんはそれをいいことに17時に尻尾を巻いて帰宅する。たいてい、男のデスクには、月曜朝イチには完了しているべきとされて、そうしたおっさんが確認するカスのような残務が、無数の消しゴムのカスみたいに散乱していた。

オフィスからあらかた人影が消え、男の前を除いては非常灯以外の照明が落とされていたことに気づいたのは、18時を回った頃に、小用をして持ち場に戻ろうとする途中だった。それまでPCのデスクトップに没入していたが、不意に男の体と画面に意識の距離が生じて、あたりを見回した。

うつろな目を中空に向けたまま、ケツのポケットから携帯を取り出すと、ドライバーを車寄せに呼んだ。

ガタガタと振動する後部座席で、両膝をひじ掛けにして、先っぽが擦り切れて緑色になった革靴をみているうちに、襟元からすえた体臭が上がってくるのがわかった。

 

(つづく)