仕事しないおばさんは、それでいいのか?

仕事しないおばさんがいるんですよ。

わたしのデスクのとなりに。

 

もう15年ぐらい働いていて、実はわたしと同年の入社です。

 

15年ぐらい働いている、というのは語弊があって、
すくなくともわたしが知っている、ここ5年ぐらい、そのおばちゃんが頑張ってやっているところを見たことがありません。

 

だから、正確にいえば、15年働いているおばさんではなくて、
15年会社に所属していて、すくなくともそのうち5年は頑張ってないおばさんです。

 

かたや、同じオフィスの偉い人から若い人まで、ほとんどの人は、締切りに煽られ、失敗を怖れ、スムーズに行かないことにいらだち、ストレスでときに眉間に皺をよせ、居心地の悪さを感じながら、やっとの思いで仕事をやっています。まさに、頑張っている感じがするわけです。

 

仕事をしないとなりのおばさんは、そんな感じがぜんぜんしない。

わからないことは、わからないからできないと言って上司に投げ返す。
わかっていることは、ほとんどは後輩にぶん投げる。

 

後輩がわかりません、と聞いてきたら一応おしえます。教えられる仕事しかやらないから、まあ教えられるといえば、教えられるわけです。

ただ、その教えるとは、お世辞にも丁寧とはおもえなやり方で、ごく簡単に、誰々に聞いたら?、とか、どこどこの部署に確認して、みたいな感じです。

 

その丁寧ともいえない指導で、できる後輩を優秀と言うし、できない後輩はダメな人といいます。

 

おばさん自身は、仕事面の成長が止まっています。

はたして、それでいいんですかね? もっと一生懸命やれよ、チャレンジしろよ。

 

この仕事をしないおばさんのことを、辛らつに批判する同僚たちがいます。

わたしも、その同僚に同調しています... 

 

ただし、同調していたのは数年前までです。

 

いまはそう思っておらんです。

 

そのおばさん、いわゆる一般職で、もう出世の上限に張り付いているし、

給料も上がらないです。

今以上、彼女が工夫できることは、仕事負荷を減らすことにより、
同じ給料を、より少ない負担でいただく...

 

このおばさんを批判する同僚たちは2つのグループに分かれます。

 

ひとつは、まだ出世する可能性が残されている(と自分で信じている)おじさんたちです。

この人たちは、批判といっても、冷笑、とか軽侮のような調子です。

 

もうひとつは、そのおばさんがもっと頑張れば楽になる人、あるいはおばさんが頑張らないことにより、割を食っていると感じている人たちです。具体的には、管理職の一部です。

 

この管理職の人たちは、おばさんが投げ返した仕事を、また誰かに指示するか、自分でやらなければなりません。往々にして、他の誰かには、すでにこのおばさんができないであろう、大量の仕事を既に指示しています。たいてい、少々おいて頃合をみはかって、別の誰かに指示をします。

 

管理職の人は、このおばさんに強制的に仕事をさせる術は、ありません。

 

最近、このおばさんのことを批判する気には、なれません。
まったく役に立ってない、というわけではありません。
もちろん、いなくても問題ないです。代わりはいくらでもいますから。

 

しかし、程度の差こそあれ、わたしも同じです。
役に立ってないわけではないかわりに、代わりはいくらでもいます。

 

別に、わたしは自分が代わりのきかない、貴重で役立つ人材でなければならないとは、
おもってないです。ただ、お金がないと困りますが。

 

このおばさんとわたしについて、程度の差はあるような気はしますが、
その程度の差というのは、定型的とか不定型的といった仕事の性質の違いです。

不定形な仕事というのは、あまり前例などがなく、仮説をたてて、試行錯誤しながらやっていく仕事です。遂行の過程で、大小の失敗は日常茶飯事です。

前段に書いた、締切りに煽られ、失敗を恐れ、スムーズにいかないことにいらだち、
眉間に皺を寄せることになりがちな性質のものです。

 

かつてわたしは、こういったことをやっていくというのは、それなりに知的な仕事を行う人であり、そういうことをやっていく人はすばらしく、そうあるべきだ、というような考えをもっていました。
だから、仕事をしないおばさんとわたしにある、程度の差、というのは、決定的な差であると思っていたように思います。

 

今では、この程度の差というのは、このおばさんを批判したりする論拠とするほどの、重要なものであるように思えなくなってきました。

 

だって、知的な仕事をしたところで、給料は違いますが、大した違いではないです。

 

一生のうち、元気な時代の、起きている時間のほとんどを、締切りに煽られ、焦り、いらだちながら生きていきたかったのか?

仕事をしないと自分が思っていたおばさんを批判したいのは、、実のところ、うらやましかっただけではなかったのだろうか。 

正直に生きられない自分をごまかすために、冷笑したり侮蔑しているのだと、自分に信じ込ませていたのではないだろうか。